第九回、カオスと量子カオス(その2)


前回紹介したように、カオス(混沌)は古典力学の範囲で出現した新しい概念です。ではカオスはミクロな世界を記述する量子力学でも出現するのでしょうか?イチローの打ったボールは観客が見ようが見まいが、ライト=センター間の安打コースに向け飛んでいきます。しかし、ミクロな世界の電子は、観測をしない限りどこをどのように飛行しているかわかりません。一方、ミクロな世界では電子の位置や運動量は観測により初めてその値が確定します。電子の状態は波動関数により記述され、これは電子の存在確率と関係しています。波動関数の時間発展は、決定論的なシュレーディンガー方程式に従うことが知られています。ある任意の時刻での物理量(位置や運動量)は観測をして初めてその値が判明すると簡単に述べましたが、正確にいえば波動関数は、これらの観測値の期待値(平均値)や分散(不確定性)を正しく与えることができます。この時、大事なことは、

1)観測行為により波束の収縮がおこり、波動関数の過去の履歴が消されてしまうこと

です。さらに、

2)電子の位置と運動量を同時に正しく測定できない

ことも大切です。位置を正しく測定しようとすると、運動量の正しい値が決まらず、逆に、運動量を正しく測定しようとすると、位置の正しい値が決まらない、ということが現実に生じます。すなわち同時刻に、位置と運動量のそれぞれを測定した時の不確定性(分散)の積はプランク定数より小さくすることができないということが知られています。これを不確定性原理といいます。この不確定性原理のために、力学系の相空間の解像度(分解能)には、プランク定数のスケールの下限(プランクセル)があることがわかります。

他方、以下で見るように、シュレーディンガー方程式は、波動関数に対する線形方程式ですので、カオスという非線形の振る舞いを記述することはできません。つまりミクロな世界にカオスは存在しないのです。これは、ボーアの(量子古典)対応原理の観点から見ても可思議なことです。

ここでは、古典的にカオスを示す具体的な系を量子力学で取扱ってみましょう。そして、量子系のダイナミクスがカオスをどこまで模倣でき、どこからは模倣できないかを示してみましょう。前回述べたように、位相空間の大域的な構造を捉えるには、個々の軌道を追いかけるよりは、軌道の統計集団の時間発展、つまり、軌道点集団の分布関数の時間発展(拡散)を考察したほうが便利です。位相空間上での初期値の塊(位相液滴)の拡散に対応する量子ダイナミックスを考えてみましょう。

量子スピンのダイナミックス(動力学)

ここで、量子動力学の具体例として、振動磁場(周期T=2π/ωで偏りがx方向)の作用する1個のスピンSを考えましょう(太字であらわされた文字はベクトルを表すと約束します)。動力学を支配するハミルトニアンは、

H = ASz2 - μBSxcos(ωt)   ... (1)

で与えられます。第1項はスピンをx-y面内に倒してエネルギーを下げようとする容易面型の異方性エネルギー、第2項はx方向に偏極した振動磁場とスピンとの相互作用エネルギーです(A>0, μB>0)。 式(1)を量子系とみなしたとき、S2のどのような大きな値に対してもヒルベルト空間の次元は有限であり、長時間の量子動力学を理解するのに都合がよいことが知られています。

まず、(1)を古典ハミルトニアンとみなし、スピンベクトルS = Sx ex + Sy ey + Sz ezに対する運動方程式を作ります:

  ... (2)

ここで{ , }はスピン系のポアソン括弧式であり、

を意味します。式(2)は、ニュートンの方程式に対応する角運動量に対する方程式です。 (2) を具体的に書くと

となります。スピンの大きさを1に規格化すると、Sは角度変数θ,φを用いて

S = (Sx,Sy,Sz) = ( sinθcosφ, sinθsinφ, -cosθ) 

のように表わされます。

式(2)にしたがう古典スピンの振る舞いは、周期Tの整数倍の時刻でのSの値を(θ,φ)平面にプロットすることにより理解できます。A=1とし、弱磁場と強磁場の値としてそれぞれμB=0.05とμB=1を採用することにし、t=0でθ=0, φ=0の回りにガウス的に分布していた初期値の集団が時間の経過とともに拡散する様子を図1に示します。弱磁場では一方向に単純拡散が生じるだけです。時間の経過とともに複数の帯構造が発生するように見えますが、これはφ方向の周期境界条件によるもので、折り畳み構造とは別ものです。この種の拡散は個々の軌道が規則運動をする結果として生じることが分かっています。他方、強磁場ではカオス的拡散に特徴的な引き伸ばしと折り畳み(パイこね変換)が無限回繰り返されて位相空間はエルゴード的となります。(厳密にいうと、μB=1ではまだ北極と南極の近傍にカオス軌道の入り込めない小さなKAMトーラスが残っています。)


図1 古典スピン系での初期値集団(ガウス型位相液滴)の拡散。
  弱磁場(A=1,μB=0.05)の場合(左のパネル): (a)t=0;(b)t=T;(c)t=2T;(d)t=4T;(e)t=7T。
  強磁場(A=1,μB=1)の場合(右のパネル): (a)t=0;(b')t=T;(c')t=2T;(d')t=4T;(e')t=7T。

このような古典スピンのダイナミクスの量子対応物は何でしょうか? 式(1)を量子スピンに対するハミルトニアンとみなし、波動関数ψに対する時間依存のシュレーディンガー方程式を考えてみましょう:

  .... (3)

最初に述べたように観測行為は、波束の収縮を引き起こし、波動関数の過去の履歴を消してしまうので、行なわないようにします。Szの固有状態を

として、{ |m> } を基底関数にとり、ψを

と展開して (3)に代入します。すると、係数Cmを成分にもつベクトルCに対する方程式を得られます:

   ... (4)

ここでH(t)は{ |m>} を基底としたときのハミルトニアン行列です。t=nTでの解は

C(nT)=UnC(0)    ... (5)

で与えられます。Uは一周期当たりの時間発展(ユニタリー)行列で、時間序列の演算子を使って次式で与えられます:

  .... (6)

ここで固有値方程式

の解を利用すると、 (5)はより具体的に

となります。 式(6)の積分は、周期Tを無限小区間に分割し指数演算子の無限個の積をとることにより実行できる。以下では、半古典領域のマクロな量子スピンを考える。つまり、半古典極限(h→0)でスピンが古典値(S2=1)を再現するように

とします。半古典領域では量子古典対応がうまくいっているだろうと期待できます。

古典描像によく対応する波動関数の表示はスピンコヒーレント状態

|θ,φ> = exp(-iθ(Sxsinφ-Sycosφ))|-S>   ....(7)

を用いた表示です。これは正準変数に対するコヒーレント状態(不確定性が最小となる状態)のスピン版にあたります。時刻t=nTでの確率密度関数は

Pn(θ,φ)=|<θ,φ|ψ(nT)>|2   ....(8)

で表わされます。

半古典スピンの値としてS=60を採用し、初期時刻にθ=π/2, φ=0の回りの最小不確定性波束(ガウス波束)を用意してみます。これは、古典論の初期値の集団(ガウス型液滴)に相当します。このガウス波束の時間発展を示したものを図2に示しました。弱磁場では、波束の一方向への単純拡散が生じるだけで終わってしまいます。還元ゾーン(|φ|<π)を越えて拡散した部分は還元ゾーンに重ねられて(φ方向の周期境界条件による)干渉を引き起こし、その結果、波束は背骨のような構造をとりながら単純拡散を続けます。この場合、古典ダイナミクスの単純拡散(図1の左のパネル)と良く整合していることが見て取れます。

強磁場でも、ダイナミクスの初期段階で、確かに古典カオス(図1右のパネル)に類似の波束の引き伸ばしと折り畳み(パイこね変換)が生じていることが観察されます。背景の古典カオスのパイこね変換に対応して、ガウス波束は次第に細くなっていく紐の織物に変化していっています。しかし、織目の細部のサイズがプランク定数のオーダー(h〜1/S, hはプランク定数)になるクロスオーバー時刻に、隣接する織目間の干渉が発生し、それ以後はもはやパターンに質的な変化が生じなくなります。より詳しく考察すると、ガウス波束の最も伸びる方向は l//=l0//exp(λt) の様に成長します(λは正の最大リアプノフ指数)。しかし、位相液滴の非圧縮性 (面積保存の定理)に対応して、l//と独立な方向の紐の幅および紐と紐の間の間隔は l=l0exp(-λt)のように収縮していきます。


図2 量子スピン系でのガウス波束の拡散。波束の等高線を示す。
   (a)-(e) ,(a)-(e')は図1に対応。

ところが、量子力学では不確定性原理のため位相空間の分解能にプランク定数のスケールの下限(プランクセル)が存在します(図3参照)。したがって、量子動力学はパイこね変換を無限回続けることができなくなります。つまり、紐間の間隔がプランクセルほどに小さくなったとき、つまり、l(t)=O(h1/2)=O(S-1/2)となる時刻(エーレンフェスト時間と呼ぶ)

        τc 〜λ-1ln(h-1)

になると突然、隣り合う紐間の量子干渉効果により準安定なネットワークができます。いったん、ネットワークができると、パイこね変換の様な劇的なダイナミックスは停止してしまいます。結局、量子系でのカオス的拡散は、t>τcでは抑圧されてしまうのです。このように、現在の量子力学の枠組みの中では、量子古典対応がエーレンフェスト時間迄しか成立しません。また、S=1/2のいわゆる量子極限ではτc=0であり、パイこね変換はまったく期待できない! これが量子系におけるカオス的拡散の抑制の実例です。ここでは、ボーアの対応原理が完全に破れています。(部分的にせよ)量子古典対応を回復するには、波束を破壊しなような連続測定を試みて、外界の大自由度との相互作用によるデコヒーレンスを導入するなどの方法を用いなければいけないと考えられます。


図3 波束の量子ダイナミクスの概念図。
  小さい正方形(破線)はプランクセル。

量子カオスとは何か?

シュレーディンガ−の第4論文で初登場した時間依存のシュレーディンガ−方程式は、振動数と周期がはっきりと定義されるド・ブロイ波の記述のために考案されたものです。したがって、この方程式はカオスを生成できない仕組みになっていることは、すでに述べました。しかし、特徴的な振動数や周期を持たず、初期値への異常な鋭敏性を示すカオス運動をする粒子の従う法則としては、線形よりは非線形の波動方程式のほうが適切ではないか?という疑問が生じます。10年ほど前にスティーブン・ワインバーグはぺニングトラップされたベリリウムイオンの核スピンの磁場中の才差運動の不規則性の実験を説明するために量子力学の非線形版を提案しました。また、彼の同僚のポルチンスキー(超弦理論の研究者)は、量子力学の非線形版を適用してアインシュタイン=ポドルスキー=ローゼンの実験における局所性の仮想的破れを現実的な破れに転じ、信号を(光速度を越えて)瞬時に送れる可能性を指摘しました。ところが、才差運動の実験の不規則性が決定論的カオスではなくノイズによるものであることが判明して、この方面の理論活動は海外では現在のところ下火となっています。しかし、これは量子力学の非線形版の可能性を否定している訳ではありません。

他方、シュレーディンガ−方程式と等価とされるハイゼンベルクの行列力学やディラックの非可換代数の力学(カノニカル量子化法)は正準共役量の非可換性([x,p]=ih/2π)を(仮説)原理としています。この原理はボーア=ゾンマーフェルト(BS)の作用量子化則を書き直し局所的原理として普遍化したものです。BS量子化条件は自由度が1の力学系に対して成立しますが、多自由度(自由度が2以上)の系になると、例外的な完全可積分系(自由度と保存量の数が等しい系)を別とすれば、ごく一般にカオスが誕生します。カオスを示す系ではトーラスが崩壊して、そもそも作用量子化という概念が成り立たず、カノニカル量子化法の根拠が曖昧になります。古典的に規則運動しか示さない可積分系では、量子力学の枠組みは揺るぎない一方で、古典的にカオスを示す系に対してはこの枠組をどうしたら正当化できるのでしょうか?

この暗雲の中から、「もし、量子力学の枠組みが古典的にカオスを示す系についても適用できるという仮説が崩れた場合、カオス系に有効な量子力学の枠組みとは何か?古典カオスのように初期値鋭敏性を示す量子カオスとは何か?量子の概念を保ちつつカオスを生成できるのか?」という問題が生まれてきます。これが、(場の理論の基礎をも揺さぶる)「量子カオス」の基本問題(の一つ)です。

他方、現在の量子力学の範囲内で、古典的にカオスを示す系の量子論的振る舞い(カオスの量子論的兆候)を考察することはそれ自体、きわめて興味深いことです。今日、カオスの量子論的兆候を明らかにする研究テーマも、便宜的に量子カオスと呼ばれています。この種の着実な研究の延長線上に量子力学の既存の枠組みの変革が待ち構えているかもしれません。次回(最終回)は、古典的にカオスを示す系の量子力学およびその半古典極限が示す多彩なふるまいを、ナノテクノロジーを基盤にした量子輸送の具体的問題に即して明らかにしていきましょう。