第八回、カオスと量子カオス(その1)


今回から3回にわたって、物性科学.物理学を含む自然科学の多くの分野に影響を与 えつつあるカオス(混沌)とその量子論的徴候(量子カオスという)について説明します。

カオスは、空に倣り投げたボールの放物線運動や太陽系の惑星の周期運動と同様、 ニュートンの運動法則などの決定論に支配されているにもかかわらず、偶然性を示し 予測不可能となるとても不可思議な運動です。

ニュートンの運動法則は、現在の状態が決まれば、未来の状態が一通りに決まるという決定論的性質を持ちます。しかし、19世紀の終わりにフランスの学者アンリ=ポアンカレは、運動方程式の解を導く際に、初期状態の微小な誤差が、運動によって急激に拡大され、あっというまに巨大な誤差となる場合があることを指摘しました。彼は、連星と呼ばれる2つの星のまわりを回る惑星の運動(3体問題ともいう)は、万有引力項を持つニュートンの運動方程式で記述されるがその軌道はあまりにも込み入っていて図を書くことさえできない、と述べています。これがカオスのコンセプトの源流になっています。実際、最近のコンピュータ.シミュレーション(図1)でもわかるように、カオス軌道に入った惑星が一方の星で何回まわって他方の星で何回まわるかを前もって予測することは不可能であり、宇宙飛行船が連星の引力圏に入ったら大変なことになります。最近、カオスは、より身近かな物性科学の世界でも生じることがわかってきました。実際、ナノテクノロジーで作製されるサブミクロンスケールの量子ドット(量子ビリアードともいう)内の電子運動や超伝導量子効果デバイス(SQUID)の位相ダイナミクスを、古典力学で扱うとカオスの出現が期待されています。


図1 アンリ=ポアンカレと連星(二つの太陽)の回りの惑星の運動.

今回は、カオスを示すもっとも簡単な力学系といわれている「キックを受ける回転子」(周期的に撃力を受ける回転子)や「パン屋の変換」(パイコネ変換ともいう)を例にとり、古典力学の枠内でトーラス(秩序)の崩壊とカオス(渾沌)の発生機構 について述べます。

キックを受ける回転子と標準写像

キックを受ける回転子のハミルトニアンは

で表されます。ここで、Tはキックの周期、Kはキックの強さです。これから、運動方程式は

となります。ここで、n番目のキックの直前の角度と運動量(=角速度)をそれぞれθn, pnとして、隣り合う(θn+1,pn+1) と(θn, pn)の間の関係(写像)を求めてみましょう。微小量εを導入し、運動方程式を1周期Tにわたって積分すると、


      

より、以下のような写像fを得ることができます。


         ... (1)

この写像fにより、入力値(θn, pn)から出力値 (θn+1, pn+1)が得られ、出力値を再び入力することにより、系の時系列{ (θn, pn)|n=0,1,2,・・・}が得られます。

まず、キックがとても小さい極限(K→0)を考えましょう。回転子の運動を相平面(θ-p平面)として図2(a)に示しました。この図で、(θ ,p)=(π,0) を楕円型固定点(センターともいう)と呼び、(θ, p)=(0, 0) を双曲型固定点(サドルともいう)と呼びます。楕円型固定点の回りの閉じた軌道は、平衡位置(ポテンシャルが最小となる角度)の回りの微小周期運動(微小振動)を表わします。相平面の上下にあるθ方向に伸びた軌道は、ポテンシャルに鈍感で2πの回転を何回も繰り返す運動(オリンピックの鉄棒選手の大車輪運動のようなもの)に対応します。しかし、これは振幅が大きいだけで、結局、周期運動です。微小周期運動と回転運動の境界にセパラトリックスという運動があります。これは、双曲型固定点から出発して1回転して隣の双曲型固定点に到達する運動です。


図2  相平面における「キックを受ける回転子」の軌道:
    (a)キックがとても小さい極限;(b)キックの強さが有限の場合.

キックが大きくなっても、相平面の固定点は変化しません。(1)を解き、双曲型固定点(θ,p)=(0, 0) の近傍から出発した軌道がどのように伸びていくのを示したのが図2(b)です。セパラトリックスおよびそれに近い周期運動は、規則性を失ない予測不可能な運動となり、カオスが発生します。この図からわかるように、セパラトリックスは、実は2重縮退していたことがわかります。1つの軌道(不安定多様体)は、対向する双曲型固定点(θ,p)=(2π, 0) に近づくにつれ激しく振動します(振動のピッチが狭まりはじめ振幅がしだいに大きくなる)。もう1つの軌道(安定多様体)は、不安定多様体と時間反転対称な関係にあり、時間を過去にさかのぼることにより激しい振動が現われます。このようにセパラトリックスは摂動に対して最も不安定な多様体です。図2(b)のような構造をヘテロクリニック構造と呼び、不安定多様体と安定多様体の交点をヘテロクリニック点と呼びます。このとき、2つの多様体に挟まれた領域は写像fにより、引き伸ばしと折り畳みのプロセスを繰り返してフラクタルな(自己相似な)織目構造(ヘテロクリニック構造ともいう)へと発展していきます。ヘテロクリニック構造を含む多くの軌道をまとめて相平面に図示したものをポアンカレ断面といいます(図3)。図からわかるように、一般に、ヘテロクリニック構造に対応したカオスの海(銀河のようなバラバラの点の集合)とトーラス(周期的あるいは準周期的な規則軌道)は相平面上に住み分けて共存しています。また、トーラスの周りのカオスの海には微小トーラスの島構造ができ、さらにその周りにより小さなスケールの島構造ができてフラクタルな構造が生成しています。


図3 標準写像のポアンカレ断面と島構造.
    [J.D. Meiss: Rev.Mod.Phys.64(1992) 795より転載]

ところで、(1)は剛体壁表面に沿ってスキップする磁場中の電子の運動を表わす写像になっていることを指摘しておきましょう。いま、高さbの山を1つ持つ滑らかな表面の剛体壁が、x軸方向に周期2aで並んでいるとします。紙面に垂直に磁場が作用すると、壁の近くの電子は不完全なサイクロトロン運動を繰り返しながら壁に沿ってドリフト運動する(図4)。n回目の衝突時の電子の座標をxn、軌道とx軸のなす角度をφnとします。h=b/a<<1の場合、簡単な幾何学的考察(サイクロトロン運動の中心を補助座標にとる)より


           .... (2)

という写像を得られます。ここでRは電子のサイクロトロン半径です。(2)を解くことにより、時系列{(xn, φn)|n=0,1,2,・・・}が生成します。関数ζ(x)は境界(剛体壁)の形状の勾配で決まるmod 2aの関数です。 h<<1のとき、境界の1ユニットは放物線で近似できるので、その勾配は ζ(x)〜-h(x-a)とおけます。したがって-2ζ (xn) 〜2h(xn-a)=pn, φnn , -2Rh=Kという置き換えをすると(2)は(1)の時間反転写像(添字 nとn+1を入れ替えたもの)に一致します。(1)は時間反転操作に対して不変な写像なので、結局、(2)は(1)に帰着します。その他、数多くのハミルトン系の運動方程式に対応する写像は、ある種の極限で(1)に帰着するので、写像(1)を標準写像と呼んでいます。


図4 剛体壁に沿ってスキップする磁場中の電子.

「パン屋の変換」と引き伸ばし・折り畳み機構

カオスの本性は引き伸ばしと折り畳みの繰り返しにあることを述べたが、それを象徴的に示すもっと簡単な写像を紹介しましょう。これは

...(3)
で定義され、の正方形を横に2倍に引き伸ばし、その後右半分を切り離して左上に移動する写像です。写像(3)は(トーラスをともなわない)完全カオスを示す写像で、「パン屋の変換」あるいは「パイこね変換」と呼びます。(3)の写像は、面積の伸縮度をあらわすヤコビアン

が1となるので、面積保存写像と呼ばれます。また、微小誤差

の拡大率を調べると、

となります。

なので、x方向には正のリアプノフ指数λ1=ln2、y方向には負のリアプノフ指数λ2=-ln2を持ち、面積保存性を反映して
λ12=0となります(ここでln(x)=loge(x)です)。(3)の操作をネコの顔に対して繰り返し適用することによりフラクタルなネコの顔が形成されていきます(図5)。ネコの顔は、「パン屋の変換」によって引き伸ばしと折り畳みを交互に繰り返して限りなく切り刻まれていくわけです(自然科学的考察では、通常、憐憫などの感情移入をしません)。この性質を混合性といいます。また混合性の結果、相空間全域がフラクタルなネコの顔で埋め尽くされます。これをエルゴード性といいます。「パン屋の変換」は完全カオスを生成する変換であり、キックを受ける回転子(標準写像)とは異なり、トーラスの島構造(カオスとトーラスとの共存)を生み出しません。


図5 「パン屋の変換」によるネコの顔の引き伸ばしと折り畳み.

ところで、リアプノフ指数は初期値への鋭敏な依存性を反映する量です。相空間において着目する軌道に対する変分あるいは誤差δ(t)の時間発展を考えましょう。カオス軌道に対しては、距離がδ(t)∝exp(λt)のように指数関数的に増大する。λ(>0)がリアプノフ指数です。規則軌道の場合は、δ(t)∝tαのようにベキ法則に従うのでλ=0となります。また、カオスの海の中の孤立した不安定周期軌道に対してはλ>0です。一般に自由度sの保存系では、エネルギーが運動の恒量であることに注意すると2s-1個のリアプノフ指数があります。それを大きいほうから番号付けしてλiとすると、それらは正の成分(λ1〜λp)とゼロおよび負の成分(λp+1〜λ2s-1)から成り立っていて

の関係を満足します。

いま、ネコを一般化して、相空間に初期値の集団が作る位相液滴を考えましょう。液滴はハミルトンの方程式に従い体積を保存しながら拡散を始めます。リアプノフ指数が正の最大値をとる方向にいったん引き伸ばされるが、相空間のコンパクト性のため折り畳まれます。このプロセスを無限に反復することにより限りなく小さなスケールのフラクタルな構造が生成します。つまり、カオス的拡散の本性は、パイこね変換の原理に従って引き伸ばしと折り畳みを交互に何回も繰り返し次第に複雑なパターンができあがっていくことなのです。

分布関数とフローベニウス=ペロン方程式

古典力学では、個々の軌道を追いかける立場と相補的な関係にあるのが軌道点集団の分布関数の時間発展(拡散)を調べる立場です。いま、時刻nにおける軌道点の分布関数をPn(x,y)としましょう。すると、時刻n+1での分布関数Pn+1(x,y)は次式で与えられます。

...(4)

ここでf(x), g(y)は「パン屋の変換」(3)を与える関数で

式(4)は離散時間のマスター方程式であり、フローベニウス=ペロン方程式といいます。

δ関数の公式

を用いて (4)の積分を実行すると

   ... (5)

となります。時間が経過すると、分布関数は引き伸ばしと折り畳みの機構を繰り返しながら不可逆的に平衡分布に近づいていきます。n→∞での平衡分布は、(5)でPn+1(x,y)=Pn(x,y)=P(x,y)とおきP(x,y)の満たす方程式を解けばよいことになります。平衡分布P(x,y)を不変密度あるいは不変分布関数とも呼びます。これは一般に一様な関数ではありません。この平衡分布をもちいると、物理量A(xn,yn)の長時間平均を相空間平均

で置き換えることができます。このような処理が可能な系をエルゴード的といいます。つまり、「パン屋の変換」はエルゴード性が成り立つもっとも簡単な力学系です。

このように、カオスとは、ノイズやランダムネスなどの外的な乱れにまったく頼らず、決定論的法則だけに従いながら偶然性を示し、まったく予測不可能な軌道を生成します。カオスの基本的特徴は、(i)初期状態への敏感な依存性(正のリアプノフ指 数);(ii)引き伸ばしと折り畳みの繰り返しによる無限に小さなスケールのフラクルな織目構造の生成;(ii)カオスの海の中の自己相似な島構造の出現(トーラスとの共存系の場合)など、にあります。また、完全カオスを示す「パン屋の変換」では(iv)不変分布関数が存在し系はエルゴード的です。

次回は、ミクロな世界の基本法則である量子力学の立場からカオスを考察してみることにします。