第十回、カオスと量子カオス(その3)


はじめに

ゲームセンターのビリアードの話から始めましょう。ビリアード台の典型として、スタジアムビリアードとシナイビリアードがあります。スタジアム(図1(a))は長方形の両側に一対の半円を取り付けたもので、ビリアードボールは凹状の壁の内側を運動します。シナイビリアード(図1(b))は丸い障害物を規則的あるいは不規則に配置したもので、ビリアードボールは凸状の壁の外側を運動します。ビリアードボールの運動は、図1のように初期条件がほんのわずか違うだけでその後の経路がまったく異なってしまうのでカオス的となります。


図1 カオスを示すビリアード。破線は、初期値が少し異なる軌道:(a)スタジアム ; (b)シナイビリアード。

ビリアードボールの運動はマクロな世界を支配するニュートン力学で記述されます。しかし、ナノスケールのミクロな世界を運動する電子はシュレーディンガー方程式で記述されます。この方程式は、波動関数に対する線形方程式なので、カオスという非線形の振る舞いを記述することができません。はたして、量子力学で記述されるミクロな世界にカオス的現象はあるのでしょうか?これが本インターネット講座の最後の3回で追求している課題です。

最近、超微細加工技術(ナノテクノロジーと言う)が発達してナノ(10-9m)からサブミクロン(10-7m)スケールの電子デバイスの作製が可能になり、デバイス内を運動する電子の非線形動力学を直接あるいは間接にとらえることが可能になってきました。その結果、カオスの量子論的兆候を見ることが、メゾスコピック物理学の大きなテーマの1つになっています。 とくに、ガリウム.ヒ素(GaAs/AlGaAs)などの半導体のへテロ接合界面に、スタジアムビリアードのように電子が壁の内側の面で散乱される凹状ビリアード型の量子ビリアード(量子ドットともいう)や、シナイビリアードのように電子が壁の外側の面で散乱される凸状ビリアード型のアンチドットを作製して伝導電子の量子輸送を測定することが盛んになっています。この場合、電子の平均自由行程がドットのサイズよりも長く、電子は壁に弾性散乱される以外は弾道的に、つまりバリスティック(弾丸的)に飛行しています。スタジアムやシナイビリアードでの点粒子の古典運動は、すでに述べたように完全にカオス的です。しかし、今の場合、ビリアードのサイズはナノスケールであり、点粒子は電子なので、量子力学で運動を記述しなければならず、さらに実験との比較のために電気伝導率を計算する必要があります。こうして、ミクロな世界のカオスの量子力学的兆候が量子輸送(電気伝導率)を通して顔を出してくるのです。

いま、図1(b)のように、半径Rのマクロな剛体ディスクが2次元平面に規則的に並んでいるとしましょう(単位セルの面積を.とする)。小さなボール(点粒子)がこのディスク間を衝突を繰り返しながら弾道的に飛行する系がシナイビリアードであり、ハミルトン力学系の最も簡単な例の1つです。衝突は弾性散乱で、ボールの速度の大きさvは不変です。ボールがディスクに衝突する回数は単位時間当たり

τ-1=2Rv/Ω

となります。(静止しているボールに直径2Rのディスクの集団が速度vで向かってくると考え、面積2Rvの領域に入る単位セルの個数を求めればよい)。τは衝突から次の衝突にいたるまでの自由飛行時間に相当します。ボールがある高さで水平に(x方向に)発射されたとすると、これはディスクに衝突した後、次々と別のディスクに衝突します。初期時刻にボールの位置がy方向(垂直方向)に凉だけずれていると、衝突により速度ベクトルのy成分に况=v凉/Rだけの誤差が発生し、ボールは異なる方向に散乱されます。したがって、次の衝突までの自由飛行時間τの間に、y方向のズレ凉は

(1) = 凉+τ况 = (1+vτ/R)凉

のように拡大され、n(>>1)回衝突後の時刻T=nτには

(n) = (1+vτ/R)n凉 〜 [ exp{ (v/R) T} ]凉   ... (1)

のように拡大されてしまいます。これは初期値の誤差が指数関数的に拡大されることを意味しています。したがって、シナイビリアードは典型的なカオス系です。(1)を凉(n)= [ exp (λT) ]凉 と書いた時のλをリアプノフ指数といいます。この系のリアプノフ指数はλ=v/Rであり、ボールの速度相関関数は

<v(0)v(t)> = <v(0)v(0)>exp(-λt)    ... (2)

となります。

いま、系の特徴的長さをサブミクロンスケールにまで小さくし、ボールを相互作用を無視できる古典電子気体の一員とみなして電気伝導率を求めて見ましょう。電子数密度、電荷、質量をr,e,mとすると、電子気体に対する古典電気伝導率は

   ... (3)

で与えられます。 (3) に (2)を代入すると、

σ(ω)=(ρe2/λm)/(1-iω/λ)    ...(4)

これは、電気伝導率がバリスティック系におけるカオスの大域量(リアプノフ指数)の指標になりうることを示しています。

ところで、サブミクロンスケールでの電気伝導(量子輸送)の正しい取り扱いは量子力学に基づかねばなりません。量子輸送でもっとも興味深い現象は量子干渉効果により生じるバリスティック弱局在効果です。以下では、一対のリード細線の接合した1個の開放系ビリアードを取り上げてそのコンダクタンスを考察し、半古典量子理論を適用してカオスに由来する量子補正項とバリスティック弱局在について説明しましょう。

バリスティック弱局在

いま図2(a)のように、巾の狭い左のリード細線から空洞内に入射して何度も壁と衝突した後ふたたび入口に戻っていく軌道(後方散乱軌道)に着目する。この時、ちょうど時間反転対称関係にあるもう1つの後方散乱軌道が存在する。この一対の軌道の量子干渉効果により定在波が形成され、結果的に後方散乱が強められる。これがバリスティック弱局在である。しかし、磁場が作用すると時間反転対称性が破れ弱局在効果が弱められる。つまり電気抵抗が減少する。この減少の仕方はビリアードでの電子の非線形動力学とその統計的性質に大きく依存する。統計的性質の1つに面積分布がある。これは、後方散乱軌道が形成する(ほぼ)閉じた軌道の有効面積Θsに着目し(第2図(b))、この軌道集団に対してJsの分布を与えたものである。(Θsは、軌道が実効的に右回りか左回りかに対応してそれぞれ正と負の値をとる。)


図2 (a)時間反転対称関係にある一対の後方散乱軌道; (b)カオス軌道のつくる面積。

漸近領域|Θs|>>1での面積分布関数N(Θs)は、スタジアム・ビリアードなどカオスを示す系では、指数分布 

N(Θs) ∝ exp( -αcl |Θs| )        

にしたがい(αcl は古典軌道が囲む特徴的面積の逆数)、他方、円ビリアードなどの規則系ではカオス系に比べて大きい面積を囲みやすく面積分布はベキ法則

N(Θs) ∝ (1/Θs)2  

にしたがいます。面積Θsに共役な物理量は磁場Bである。そこで、N(Θs)をフーリエ変換し たもの

     

が、電気抵抗への量子補正項です(Φ0=h/eは磁束量子)。これは、カオス系ではローレンツ型

になり、規則系ではカスプ型

になります。このように、面積分布の差異が弱局在ピークの形状の差異として現われます。つまり、弱局在ピークの形状はスタジアムビリアードと円ビリアードとで本質的に異なります。

カオスを示す系に対する量子輸送の最初の実験はハーバード大学のマーカスのグループらによってなされました。彼等はビリアードに巾の狭い1対のリード細線を接合し、電気抵抗の磁場依存性を測定しました。実験は、カオス的(スタジアム)ビリアードと規則的(円)ビリアードとでコンダクタンス揺らぎの振る舞いが異なることを明らかにしました。とくに、ゼロ磁場近傍での電気抵抗のブロードなピークがバリスティック弱局在と関連していることを指摘し、ピークの磁場依存性は、スタジアムビリアードではローレンツ型、円ビリアードではカスプ型になっていることを示しました(図3参照)。


(a)                                  (b)
図3 電気抵抗のゼロ磁場近傍の弱局在ピーク:(a)スタジアム;(b) 円。

このように、バリスティック弱局在は時間反転対称関係にある一対の後方散乱軌道間の量子干渉効果であり、カオスが量子干渉効果を通じて顔を出して来ることがわかります。特に、電気抵抗やコンダクタンスが背景の非線形動力学の大域的性質だけで記述されるところがキーポイントです。

電気抵抗のフラクタル的構造

他方、オーストラリアのテーラーらは、純度の高いガリウム・ヒ素のへテロ接合界面に一辺が1μmの正方形ビリアードを作製し、正方形の中心にもゲート電圧をかけて円状のアンチドット(剛体ディスク)を作りました。これはシナイビリアード系を、実験で実現したものになってます。このシナイビリアードに、巾が0.2μmの一対の伝導性細線を接合して電気抵抗を測定しました(図4)。電子の平均自由行程は25μmでビリアードのサイズより十分大きく、フェルミ波長(ド=ブロイ波長)は0.05μmであり、電子はバリスティックな半古典運動をします。彼等はビリアード面に垂直に一様磁場Bを作用させ、そのつど抵抗測定を行いました(図4)。


図4 サブミクロン.スケールのシナイビリア−ドと電気抵抗。
   温度は、下の曲線から順に30mK,0.1K,0.4K,0.8K,1.6K,2.5K,3.3K。
   [R.P. Taylor et al.: Phys. Rev. Lett.78(1997)1952より転載]

シナイビリアードビリアードの場合、ゼロ磁場近傍の弱局在ピーク(図中の矢印A)のほかに、0.05T(Tesla)以下(図中の矢印B)でアハロノフ=ボーム(AB)振動が見えている(図4)。0.15T以上(図中の矢印C)ではランダウ準位に由来するシュブニコフ=ドハース振動が現われている。

テーラーらの実験におけるもう1つ重要な発見は、AB振動に重畳する微小揺らぎです。彼らは、45mT以下の弱磁場領域の電気抵抗に、10mTのスケールの大きな振幅の揺らぎと0.5mTのスケールの小さな振幅の揺らぎが重畳していることを発見しました(図5(a))。そしてゼロ磁場近傍の電気抵抗がフラクタル的構造(自己相似な構造)を持つことを指摘しました。これは、電気抵抗のスペクトルの一部のスケールを拡大すると再び同じスペクトルが見えることを意味します(第5図(b))。


(a)                          (b)
図5 磁気コンダクタンス(電気抵抗の逆数):(a)粗視化された構造と微小ゆらぎ;(b)フラクタル構造。
[R.P. Taylor et al.: Phys. Rev.B56 (1997) R12733より転載]

背景の古典力学を考えると、弱い磁場が作用するとき、シナイビリアードであれ、スタジアムビリアードであれ、カオスとトーラスが共存する混合系となります。この傾向は、ビリアードの壁がソフトであればより顕著となります。トーラスの回りには複数の島トーラスが存在し、個々の島トーラスのスケールを拡大すると再び類似の構造が現われ、これが無限小のスケールに至るまで繰り返されます(図6)。このような混合系のフラクタル的島構造の量子論的兆候が電気抵抗のフラクタル的構造であるといえます。ただし、両者がどのように関連しているかは未解決です。


図6 混合系におけるト−ラスの自己相似な島構造の1例:
   磁場中のスタジアムの場合。先行する黒枠がつぎつぎとズームアップされている。
[日高美奈子:2001年度大阪市立大学応用物理学科卒業研究論文より転載]

フラクタルの概念は、無限小のスケールに至るまで自己相似性が成り立つとき意味をもちます。ところが、実験結果はスケール拡大の操作を3回繰り返しているにすぎず、電気抵抗の揺らぎのフラクタル性を完全に捉えているとは言い難い状況です。しかし、逆に、文字どおりの自己相似性が実験で観測されるならば、それは量子力学の現在の枠組み(プランクセルの存在、不確定性原理など)への挑戦になるかもしれません。

結論

今回は、ナノスケールビリアードの量子輸送の興味深い振る舞いを通して量子カオス(カオスの量子論的徴候)を理解しました。古典的にカオスを示す開放系ビリアード系の大域的性質は、指数関数的面積分布で特徴づけられています。このような分布がバリスティック弱局在に大きな影響を与えることがわかります。また、シナイビリアードでの量子振動の実験を紹介し、その謎めいたフラクタル構造の背景に言及しました。

最後に、まとめを述べておきましょう。カオスの本性は(a)ランダムネスやエルゴード性にあるのではなく、(b)(正のリアプノフ指数で特徴づけられる)軌道不安定性および(パン生地をこねるような)混合性にあります。(a)は(b)の所産の1つでしかありません。ところで、完全カオス系の量子輸送の(半古典理論による)理解は着実に進んでいますが、カオスとトーラスが共存しフラクタルな島構造を示す混合系の量子輸送の非常に豊かな内容の理解は今後の課題となっています。非線形動力学(カオスと規則軌道)が本質的な役割りを演じるバリスティック量子輸送で、さらに興味深い理論的な予想(予言)や実験的検証を行なっていくことは、21世紀の物理学.物性科学の大きな課題の1つと言えるでしょう。

なかなか難しい講義だったかもしれませんが、量子カオスやナノテクノジーの最前線の研究の息吹の一端が理解していただけたでしょうか。

最後に、本インターネット講座受講の感想を、レポートとして課すことにします。500字程度にまとめて、中村勝弘 (nakamura@a-phys.eng.osaka-cu.ac.jp) までメールでお送りいただければ幸いです。なお、第八回「カオスと量子カオス(その1)」で記載ミスがいくつかありましたので、訂正しておきました。改めて出力してください。