第一回、イントロダクション


量子コンピュータ (担当:加藤岳生)

最近のパーソナルコンピュータは、一昔前に比べて、格段に進歩してきています。まずCPUの演算処理がとても早くなりました。一昔前のパソコン(当時はマイコンと呼ばれていた)だと、ちょっとした計算(例えば1000回程度のループ)にも数秒の時間がかかっていたのが、今では瞬間的に計算が終わってしまいます。また、それに伴ってグラフィックの処理速度も向上し、今では1280×1024ドットの65535色が結構あたりまえについてきます。(僕が始めて買ったパソコンのドット数は640x400のモノクロでした。)そして何よりメモリの進歩がすごいです。今のパソコンでは、256Mバイトが珍しくなくなってきています。(僕が買った初めてのマシンでは、24キロバイトでした。それはそれで僕にとっては広い空間だったのですが。そのときからみると256メガバイトなんて、とてつもなく広大な空間にみえます。いったい何に使うんだろうというくらい。)

(補足1)コンピュータのメモリには、決められた場所に「1」か「0」だけを記憶できるようになっています。この最も基本となるメモリ量を「1ビット(bit)」といいます。さらに8ビットが「1バイト(bite)」にあたります。1バイト分のメモリでは、2の8乗=256通りの状態を区別して覚えることができます。メモリの大きさは、普通バイトを単位にして表します。情報の分野では1キロ=1024、1M=1024×1024=およそ100万を意味することに注意すれば、256Mバイト=およそ25億バイト=200億ビットを意味します。

さてこのように進歩してきたコンピュータですが、それが社会に与える影響は非常に大きいものがあります。まず現代の経済を牽引する役目を引き受けていることは、言うまでもないでしょう。またコンピュータの発達によって、さまざまな計算や仕事をコンピュータが引き受けることができるようになってきています。僕が比較的よく知っている理論物理の分野をとってみても、さまざまな物理現象に対する数値シュミレーションが行われています。例えば、乱流のシュミレーションなどがそうです。コンピュータなしでは乱流の理論の進展は今よりもずっと遅くなっていたに違いないと思います。

年々、コンピュータの性能が上がってきているわけだから、このままの調子で行けば、あらゆる現象がコンピュータシュミレーションによって明らかにされる日もくるだろうと、楽観的に考えることができそうです。でも、本当にこのままの調子でコンピュータの性能が上がっていくのでしょうか?

残念ながら、今の動作原理のままでは、そうはいかないことがわかります。一番分かりやすい例として、メモリのことを考えましょう。メモリは年々集積率が向上しています。これは、「同じ面積の中に、できるかぎり多くの記憶素子(1ビットにあたる)を詰め込む」ということをしています。現在のところ1ビットあたり、非常におおざっぱにいって10の7乗程度の原子が必要です。これまでの歴史をみると、10年間に、1ビットあたりに必要なの原子数はおおよそ1000分の1づつ減ってきていることがわかっていますから、このままの調子で行くと、2030年ごろまでには、1ビットあたり1原子となる日がきてしまうはずです。これは二つの点で困ったことになります。まず第一に、「原子より小さいビットをつくるのはほぼ絶望的」なことがあります。なぜなら、それより小さなサイズ(原子核サイズ)のものを操作を行うのは、大変困難なことだからです。第二に「原子一個の状態を操作しようとすると、本質的に量子力学が必要になる」ことがあります。

量子力学とは、原子のようなミクロな対象を扱うときに必要な理論です。詳しく説明するスペースがないので、コンピュータの限界と関係があることだけを簡単に述べるとしましょう。現在のコンピュータは、ある回路の場所に電気がたまっていれば「オン(1)」、なければ「オフ(0)」とみなしています。そして、回路にたまっている電気(要は電子)の量が多ければ、これはあきらかに区別できます。ところが、回路にたまる電子の数が1個ぐらいにあるあたりから、量子力学独特の現象が顔をだしてくます。するとどうなるか?実はありえる状態としては、「オン(1)」と「オフ(0)」のほかに、「オン(1)とオフ(0)の重ね合わせ状態」も可能なのです。というわけで、我々が原子一個(あるいは電子一個)のコンピュータを作ろうとしたら、量子力学と格闘しなくてはならないのです。

しかし、これを逆手にとって、量子力学的な効果を巧妙に利用することも考えることができます。これまでのコンピュータ(古典的なコンピュータと呼ぶことにします)にはない高性能なマシンを実現しようという試みが、最近になって活発になってきました。このような新しい型のコンピュータを「量子コンピュータ」といいます。

(補足2)量子コンピュータは数十年前から、理論的には言われてきているけれど、実際につくられて実験されるようになったのは、本当に最近のことです。それも、まだまだ実用には程遠い、非常に小さな量子コンピュータであって、基礎研究の段階にとどまっています。量子コンピュータが、本当に実用化されるのか?それはいつになるか?は、よくわかりません。少なくとも30年は、かかると僕は考えています。また、当然ながら、量子コンピュータよりもっといいアイディアが出されて、そちらの方が先に実現される、ということもあり得ます。

僕の講義では、この量子コンピュータをゆっくりと紹介していくことにいたします。あらかじめことわっておきますが、僕は量子コンピュータおよびそのアルゴリズム(計算手法)についての専門家ではありませんので、深いことをつっこまれると困ります。(^^;専門的に勉強したい人は、以下に文献を挙げて置きましたので、自分で勉強してください。僕の講義では、むしろ物理学、計算科学、数学の面白い接点として、量子コンピュータの話題をとりあげます。物理を専門としない人にも理解しやすい講義にしたいと考えています。また、後の二つのテーマで必要となる量子力学の簡単な導入もかねています。

実をいうと、僕は「物理学として」量子コンピュータについて、やることが残っているようには、思えません。物理研究者としてすべきことに、「量子コンピュータをいかにして実現するか」という大切な課題があるのですが、これはどうも工学のような気がしています。では、なぜ僕が量子コンピュータに少なからぬ興味をもっているかというと、「量子コンピュータ」を実現しようとする途上に、さまざまな新しい現象(よく制御できる非平衡量子力学系で現れるなにか)がでてくるのでは、ないかと期待するからです。

(あくまで)予告ですが、第1回(5月)は、問題を解くのに必要な計算量について講義します。世の中には、計算は原理的には可能だけれども、時間がかかりすぎて、計算不可能な問題がある、ということを知ってもらいます。例として、コンピュータのセキュリティの要である、公開鍵暗号について述べます。この暗号は、現在のコンピュータでは事実上解けないことを示します。第2回(6月)は、量子コンピュータの動作原理を紹介します。ここは、新しいことがいろいろ出てくると思うのですが、頑張ってついてきてください。量子ピットと量子フーリエ変換を学びます。第3回(7月)は、量子コンピュータのアルゴリズムをつかって、公開鍵暗号が解けてしまうこと(シューアの定理)を学ぶことにしましょう。これをみると、情報工学と数学(公開鍵暗号は基本は整数論に依存している)と物理(量子力学)の奇妙な組み合わせを体験することになります。ここまでくれば、量子コンピュータの威力(の一部)がわかっていただけると思います。

予備知識は不要ですが、線形代数についての基礎知識が必要になります。講義中にできるだけの解説はしますが、各自勉強しておいてもらえると助かります。

参考文献
C.P.ウィリアムズ、S.H.クリアウォータ「量子コンピューティング--量子コンピュータの実現へ向けて--」シュプリンガー・フェアラーク東京

導電性高分子の物性 (担当: 寺井章)

筑波大学名誉教授の白川英樹先生と米国人研究者2名が2000年のノーベル化学賞を受賞されたことは皆様よくご存知のことと思います。受賞理由は「導電性高分子の発見と開発」です。このインターネット講座『物性物理学における最近の話題』では第5回から第7回まで3回にわたって導電性高分子についてお話をする予定です。今回はイントロダクションだけにします。

高分子というのは炭素や水素の原子が長く鎖状に結合したものです。高分子が集まって複雑に絡みあうとプラスチックになります。高分子と高分子の間はゆるく結合しているだけですので、熱っしたり圧力をかけたりすると、プラスチックは容易に変形します。これが可塑性というプラスチックの第1の特徴です。また、プラスチックには絶縁性という第2の特徴があります。電気を全くと言っていいくらい通さないということです。ですから、プラスチックの一種であるビニールは電気コードの披膜として使われています。

白川先生は「ポリアセチレン」という高分子の薄膜を合成することに成功されました。ポリアセチレンは炭素原子と水素原子だけから成っており、最も単純な高分子です。成功までの経緯についてはマスコミで報道されていましたので既によくご存じのことと思います。ポリアセチレンの原料はアセチレンガスです。アセチレンガスを溶媒に溶かして温めるのですが、合成反応を促進させるためにジーグラー・ナッタ触媒というものを加えます。その触媒の濃度を誤って通常の1000倍にしてしまったことが成功につながったということです。それ以前は粉末状のポリアセチレンしか得られなかったのですが、フィルム状のポリアセチレンが合成できるようになったわけです。ポリマーの業界では、この薄膜ポリアセチレンのことを白川ポリアセチレンと呼んでいます。

合成されたばかりのポリアセチレン薄膜は電気をほとんど通しません。白川先生は米国の2人の研究者アラン・ヒーガー教授、アラン・マクダイアミッド教授と共同研究を行い、ある工夫をほどこせばポリアセチレンに導電性を持たせることが出来ることを発見しました。不純物ドーピングという方法です。ドーピングという言葉はオリンピックのときに良く耳にするドーピング検査と語源が同じです。スポーツ選手のドーピングとは運動能力を高めるために微量の薬物を体内に取り込むことですが、ポリアセチレンの場合は電気を通りやすくするために微量の(といっても数%ですが)不純物をポリアセチレンに吸収させることです。不純物はヨウ素や臭素などです。ドーピングの方法は割合簡単で、ヨウ素や臭素を溶かした溶液を温めて蒸気を発生させ、ポリアセチレン薄膜をその蒸気にさらすだけです。そうすると、劇的に電気を通しやすくなるわけです。と同時に、見かけの上でもポリアセチレン薄膜に著しい変化が生じます。アルミ箔のような光沢を持ち始めるのです。白川先生が最初に発見された導電性ポリアセチレンは電気伝導度(電気の通り易さの指標)がそれほど高くはありませんでしたが、その後、合成方法に改良が施され、伝導度で銅を凌ぐポリアセチレンが得られるようになりました。

ポリアセチレン以外にも数多くの導電性高分子が合成され、エレクトロニクスへの応用も行われるようになってきました。しなやかに変形できて小さな隙間にでも収容することができることから、携帯電話のボタン型電池の電極として実用化されています。また、重量が軽いため、電気自動車のバッテリーとしての研究開発も進められています。純粋な高分子に高電圧をかけると発光するという特性を利用した電界発光ディプレイも実用化されつつあります。高分子が電気エネルギーを吸収して光のエネルギーに変換するわけです。この電界発光ディスプレイは液晶に比べて画面が明るく応答速度も速いので、次世代のフラットディスプレイとして有望です。米国ではカーナビの画面として既に実用化されているという話も聞きます。

さて、今日の講義はここまでにいたします。今後の予定ですが、第5回は、合成されたばかりのポリアセチレンはなぜ電気を通さないのか。第6回は、不純物をドーピングするとなぜ電気を通すようになるのか。第7回は、導電性高分子の工業への応用についてお話する予定にしています。

カオスと量子カオス(担当: 中村勝弘)

ニュートンが代表的な著作プリンキピア(「自然哲学の数学的原理」)において惑星の運動を論じて以降、19世紀までの多くの物理学者は、機械論的自然観を共有していました。それは、「物質の現在の状態が決まれば未来の状態 が一義的に決まる」という思想です。放り投げたボールの運動や太陽系での惑星の運動はたしかに予測(予言)通りの軌跡を描きます。ところが、19世紀の終りに、フランスの数学者ポアンカレは、ニュートン力学などの決定論的法則に従っていながら予測不可能な 運動が出現しうることを指摘しました。例えば、連星(2つの恒星)の周りを回る惑星の運動(3体問題)が、単純な周期運動になりえないことを示したのです。惑星は左右の恒星の回りで複雑な非周期運動を行い、左の恒星で何回か回った後、右の恒星を回り始めますが、左右の星での回る回数はさいころ投げの目の出方のようにランダムで予測不能となります。ポアンカレは、この惑星の軌道はあまりに込 み入っていて図を書くことさえできないと述べているほどです。これは機械論的自然観の変革 を示唆するもので、現代のカオスの始まりといえるものです。

パーソナルコンピュータの普及した現在では、ポアンカレのいうカオス軌道を誰 でも容易に図示することができます。カオスの特徴の1つに、初期状態への敏感な依存性が挙げられます。 実際、決定論的法則のもとで、初期時刻で近接していた1対の軌道間の間隔は時間の経過とともに指数関数的に拡大していきます。つまり、最初の小さな誤差が後に莫大 な誤差となってしまい、軌道の予言は不可能になってしまうのです。カオスを示す系では、一組の軌道(運動の軌跡)間の間隔dはt秒後には指数関数的にr(.exp(tlnr))倍に拡大されます。r=1.01とすれば、1秒後、1分後にはそれぞれ1.01倍、1.8倍になり、1時間後 には3600兆倍にもなります。それに対して、規則軌道を生じる系では,間隔dはt秒後にはベキ則的にtp倍に拡大されます。この場合には、p=1/8とすれば1時間後でもdは2.8倍にしかなりません。

カオスは自然界の至るところに顔を出します一定の流速uで流れている流体(川の流 れなど)に円柱状の障害物が置かれているとしましょう。uが小さいときはなにも変わったところはありません。これを層流といいます。uが大きくなると、柱のすぐ後ろに渦対が発生します。さら にuが大きくなると、柱の後ろに渦の鎖が尾を引くように現われます(カルマン渦流)。uが非常に大きくなると柱の後ろは時間的空間的に乱れた乱流状態になります。uの代わりにR=uL/n(ただし、Lは円柱の直径、nは流体の動粘性度)で定義されるレイノルズ数を変化させても同じ現象が見られます。時系列を考察すると、柱の後ろの決まった場所での流速の時間変化は、規則的振動(カルマン渦流の場合)やカオス的振動(乱流状態の場合)を示します。より身近かな例として、水道の蛇口から落ちる水滴のダイナミックスを考えてみましょう。水道の栓を少しひねると、輪郭のはっきりした規則正しい水の流れが見られます。しか し、栓を大きくひねって、水を勢いよく出すと、水の表面の形は複雑になり、時々刻々変化する乱流となります。この場合、蛇口の下の決まった場所での流速の時間変化はカオス的となることが知られています。

以上は摩擦のある巨視的な散逸系のカオスの具体例でした。ところで、ミクロな世 界の決定論的法則である量子力学と強いつながりを持つのは摩擦のない保存力学系、 特にハミルトン力学系があります。このような系にもカオスは現われます(カオスの生成には少なくとも自由度2が必要)。ハミルトン系カオスの典型例は、(a)非線形相互作用で自己結合した2次元振動子と(b)周期的にキック(撃力)を受ける回転子です。前者は、自由度が2で、自らの非線形相互作用だけでカオスを生成するのに対し、後者は、自由度1であるが、周期的外力により自由度を補完されてカオスを生成します。このように、散逸系、保存系を問わず、カオスとは決定論的法則に従いながら、偶然性を示し予測不可能な軌道を持ちます。

ところで、カオスはマクロな世界を記述する古典力学の範囲で出現した新しい概念です。それに対して、ミクロな世界を記述する量子力学、量子物理学は既によく確立した学問です。カオスは量子力学の世界でも出現するのでしょうか?またカオスの量子力学的兆候は何でしょうか?ミクロな世界を記述する量子力学の基礎方程式はシュレーディンガー方程式と呼ばれますが、シュレーディンガー方程式は線形方程式です。よって量子力学では、カオスという非線形の振る舞いを記述できないと、一見思われます。その点を明らかにするために、古典的にカオスを示す系を量子力学で取扱い、量子系のダイナミックスがカオスをどのように抑制していくかを考察します。

最後に、最近のナノテクノロジーが切り開きつつあるメゾスコピック物理学という ホットな研究分野を紹介し、カオスの量子論的徴候「量子カオス」を明らかにします。メゾスコピック物理学は、ミクロとマクロの中間のスケールの世界、つまり、ナノス ケールからサブミクロンのスケールの世界の物理現象を対象とする研究分野です。量子カオスとメゾスコピック物理とは深いつながりがあり、量子カオスを捉えることは、メゾスコピック物理の大きなテーマの1つになりつつあります。

この講義では、量子カオスの概念とその現状を、3回の講義で紹介していくことにします。